昭和48年の秋です。電大は、春は6部で3位に終わり、 惜しくも昇級出来ませんで、秋期も「6部」でした。 「関東リーグ戦」は団体戦で、自校の優勝や昇級を目指していますが、 個人的にも、その人・その人で目標はあったと思います。 私で言えば、「高校選手権」で一緒に出場した森氏や金井君と、 「関東リーグ」で打ちたいというのが1つの目標でした。 対局するにはまず、お互いの大学が同じ部でなくてはダメです。 師匠・森氏は、前にも書きましたが、慶応大学でして、 慶応は「1部」ですので、全然無理なんですが、 金井君は群馬大学で可能性がありました。 群馬大は電機大と似たようなランクでしたが、なかなか同じ部にはなりません。 1度同じ部だったのですが、3将と4将で、対戦できない事がありました。 当然ですが、同じ部で同じ将にならないと対戦は出来ない訳です。 その上、金井君は現役、私は2浪でしたので、チャンスは2年しかありません。 ただ、幸いな事に(?)勉強好きの金井君は、1年「留年」になりまして、 最後のチャンスが、昭和48年の秋期にドンピシャ巡って来ました。 今期は同じ6部(!)で、同じ3将です。時は昭和48年11月23日、場所が、 これまた思い出深い「高校選手権」と同じ会場の昭和薬科大学でした。 午前の対局で、確か対局は10時からだったと思います。 師匠・森山氏も二人の対局を知っていて、駆けつけてくれました。 その上「懸賞金」まで出してくれました。大枚2千円です。舞台は揃いました。 しかし、金井君は開始時間の10時になっても現れません。 他の人達は来ていて、3人以上いれば成立しますので、対局は開始です。 金井君は、10分経っても、15分経っても現れません。 私は、「武蔵」を待つ「佐々木小次郎」の心境です。 「遅かりし武蔵」と思って、イライラしていました。 細かくは憶えていませんが、20分か30分か遅刻すると負けという規定でした。 群馬大は関東でも一番遠い学校ですから、遅刻は結構ありました。 それでも、遅れながらも、対局はしていたと思います。 私も、よもやこの「大一番」に金井君が遅刻するとは思いませんでしたネ。 武蔵の作戦かなと思いました。フツーはイライラした小次郎が負けます。 しかし結局、武蔵は時間に現れず、「遅刻負け」となりました。 その5分後くらいに、武蔵はアタフタ駆けつけました。 「懸賞金」は当然、私が貰えるものだと思ったら、 「不戦勝じゃあダメですよ」ということで、森氏が持って帰りました。 で・・・、棋譜をクリックしても真っ白で、「幻の棋譜」という訳です。 ズルズル長い文で、最後まで読んで戴いた方には、お礼申し上げます。 |