廃止に寄せて
                                                  2002年1月

さよならセレモニー

赤間松次調教師、牧騎手、聡子騎手。笑顔です。

 

新潟県競馬組合の管理者である平山新潟県知事が2001年11月5日に正式に廃止する方針を発表し、同年11月30日の競馬組合議会において、了承され、年を越した2002年。降雪による馬場コンディション不良のため、途中打ち切りという残念な形ではありますが、新潟県競馬は、組合主催としては36年。さらに前身の関屋競馬等を含めれば、半世紀以上にわたる歴史にピリオドが打たれました。

私が競馬という存在を知ったきっかけが、ハイセイコーが人気を集めた時代。年齢的には小学校低学年の頃で、もう30年近い前のことになります。その後は、ミスターシービー、シンボリルドルフの両馬が連続して三冠馬になった頃には、すっかり競馬にはまりました。この時の年齢が20歳になるちょっと手前。20歳になってから、中央競馬を目当てに新潟競馬場に通い出すようになりました。その数年後、笠松から中央へ移籍した1頭の馬が大人気を博すことになります。その馬の名はオグリキャップ。この馬の活躍で新潟からも中央の重賞レースで活躍する馬が出て欲しいなぁというのがきっかけで県競馬を応援するようになりました。そして、何気なくJRAの機関誌「優駿」を見ていたところ、1頭の馬に出会い、完璧に県競馬を応援しようと心に決めました。その馬の名前はスノージェットです。1990年の小倉記念を勝ち馬です。その時に県競馬出身馬で中央の重賞を勝った馬がいたという事実を知り、新潟から全国に通用する馬がいるんだという喜びに浸ったしだいです。よって、競馬組合設立後の約3分の1に当たる12年間、県競馬を応援していた計算になります。その後は、オーディンやロバリーハート、エビスヤマトが所属馬として、交流のダート重賞で活躍し、JRAへ送り出したスノーエンデバーがジャパンカップ出走やダート重賞を連戦連勝したりして、私を大いに楽しませてくださいました。

廃止に至った主たる理由は、累積赤字の肥大によるものであります。自治体の財政に寄与できなければ、存在意義を果たせなくなる。よって、廃止というのは、ある程度、仕方ないことではありますが、新潟には中央競馬の存在もあり、競馬ファンは多い。しかし、大多数のファンは中央競馬にしか興味を持ってくれなかったことが残念で、これらファンの取り込みをできずに廃止になってしまったことは、とても悔しいです。

中央競馬にしか興味のないファンに対し、なぜ、県競馬の人気が浸透しなかったのか。原因の最たるものの一つとして、県競馬開催時における中央競馬の連勝馬券の発売規制が挙げられます。県競馬があることで逆に嫌悪感を抱いていたファンは、かなりいたのではと想像できます。事実、新潟日報の読者の投稿欄には、県競馬がなくなれば、中央競馬の馬券が規制なく買えるとする内容の投稿がありました。要するにファンを無視した運営をしていれば、ソッポを向かれ、やがては廃止を迎えてしまうということです。その点では、早々と三条の発売から撤退を決めたJRAにもファンの厳しい視線が注がれることになるでしょう。

2001年6月の中津についで我が愛する県競馬も廃止になってしまったわが国の競馬界。最近は違う主催者同士の交流レースが日常化したとは言え、基本的には中央競馬と地方競馬。さらに地方競馬の中でも枠組みが決められた中で競馬を行う言わば「囲いの競馬」が依然として続いている状態であるが、同一年に2箇所もの主催者が競馬から撤退するに至っては、このシステムに疲弊が生じているのは誰が見ても明らかであります。常にテレビ中継があり、マスコミ報道が賑やかなだけに人気絶大の中央競馬に所属してしまえば、大して成績を上げなくても裕福な生活ができるシステムなんて言語道断であります。競馬界も構造改革を行い、騎手、調教師、馬主など人に関する免許はすべて統一し、成績を上げれば誰でも報われるシステムを構築しなければならないと考えます。

新潟県競馬のファンになったことで、三条競馬場に通い詰めたり、ホームページを作成したうえで出会った方々とは貴重な出会いとなりました。人脈も拡がりました。

最後になりますが、新潟県競馬に所属経験のある人や馬が活躍している間は、このホームページの運営を続けていきます。内容は縮小してしまうことになりますが、今後ともご覧いただくようお願いいたします。


2011年12月追記。

久しぶりの追記だ。12月23日を以って、荒尾競馬が終了した。競馬関係者が路頭に迷う廃止は2005年の宇都宮以来のことだ。そして、新潟県競馬が廃止されてまもなく10年となる。今世紀に入って、中津に次いで2番目に廃止したのが新潟だったが、廃止させる勢いを作ってしまったのが新潟。その点では罪は重い。競馬法では著しく災害を受けた市町村は競馬を主催できるとなっている。今年は近代日本の中でも最大級の被害をもたらした東日本大震災があった。しかし、中央競馬でも売り上げが急落の中、新たな地方競馬を立ち上げる何て事実上不可能なことだ。主催する県や自治体が止めるのは一向に構わないが、やる気のある競馬関係者だけが路頭に迷わない仕組みだけは早急に構築してほしい。それこそ、JRAに移籍が可能となるような制度も構築しないといけないだろう。
一方のJRA。同じ系統の生産者の馬、種牡馬の馬しか活躍しないし、秋から冬の時期になれば外国人騎手に蹂躙状態。経済的な要素があってもこれでは売上げ伸びるわけがない。武豊騎手も衰えが顕著。だが彼に代わる一般メディアも注目する騎手がなかなか育たない。色んな意味で対抗馬が出てこないと益々厳しい状況になりそうですね。


2008年9月追記。

4年前の追記にこんなこと書いてた。「今年はオリンピックイヤーですが、次の2008年までの間に地方競馬が存在していない可能性がある位、危ない状況です。」2005年3月の宇都宮廃止後、廃止寸前のところまで行った主催者が何カ所かあったが、民間業務委託が可能になった等の競馬法改正でこの4年間は廃止に至る主催者が現れないことに多少安堵はしているが、廃止騒動が再燃する前に中央も地方も関係なく「競馬のあり方」というものを議論してもらいたい。廃止するから「はい、どうぞ。」ってことは絶対にしてはならない。

地方競馬の廃止を憂う私であるが、昨年から競馬に対する興味が薄れ馬券を買うことも数少なくなり、新潟競馬場にも三条場外発売所にも顔を出していない。きっかけは色々あるが、発端は2005年から2006年にかけてのディープインパクト騒動。結局、凱旋門賞(禁止薬物が検出されて失格)を含めて、この馬に先着した騎手は外国人のみ。何か日本人騎手たちにこの馬を負かそうとする気概が見られなかったことに失望感が膨らんだ。最近の競馬にはライバル対決というフレーズがなくなったような気がする。騎手も馬も切磋琢磨がなければおもしろくない。


2007年5月追記。

新潟県競馬が廃止になって、6シーズン目を迎えた。これだけの年月が経ち改めて元県競馬関係者・馬の現役と申しましょうか、表舞台にいる方々の数が非常に少なくなった。騎手は短期で移籍してた川本騎手を含めても4人。調教師は移籍先だった上山、高崎の廃止があったせいもあるが今では金沢にいる2人だけとなってしまった。馬は高知で高齢ながら細々と現役を続ける程度で重賞を勝つには荷が重いだろう。
それでも今年に入り、向山騎手がJRA通算10勝目をあげ、5月には山田騎手、酒井騎手で重賞の1、2フィニッシュが実現して、明るい話題を提供してくれた。本当に現役の数が少なくなってしまったが、明るい話題が数多く提供されることを願ってやまない。


2005年4月追記。

高崎そして宇都宮と2004年度に相次いで廃止され、新潟県に近い位置にあった地方競馬は、すべて姿を消してしまった。何とも寂しい話である。そんな地方競馬界において、一番有名な馬が現在ではコスモバルクということになるでしょう。2歳の秋に中央競馬の500万下芝レースを走らせたところ、人気薄ながら見事に1着。その後の中央競馬芝レースにおける活躍ぶりは、GU以下の重賞を3勝。皐月賞やジャパンカップでも2着と素晴らしいものであります。(新潟からは、このような馬はとうとう出現しなかった。)
 但し、JRAは相変わらず、芝GTレースに出走する地方馬には一部を除いて、前哨戦になるレースで重賞なら2着以内、オープン特別で1着(3歳戦だと多少基準が甘くなる。)にならないと芝GTに出走できないルールを適用している。これほどの実績馬にも「予選」での好成績をあげないと出走させないというものはいかがなものかと制度ができた10年前から常々感じています。しかも香港のレースなら、即、芝GTに出走できるというのも相まって、誠におかしなルールであることが実証されることだ。
 そのJRAなんだが、今年からダートの重賞に出走する地方馬に対して、中央競馬流の番組賞金ルールを適用し、中央競馬の所属に照合して、オープン馬でなければ出走できないルールを作ってしまった。これでは、賞金額の安い地方競馬所属馬の出走機会をいたずらに奪ってやしないか。例を挙げると今年の根岸S。かつて、JRAのオープン馬で所属していた高齢の馬しかも力の衰え顕著な馬(サンエムキング)が出走できて、生え抜きで力をつけて、ダートグレード重賞でも掲示板に載る若馬(タイガーロータリー)が出走できないなんてのはナンセンス。
JRAには地方競馬からの出走馬には、より力のある馬、調子のいい馬の出走に心がけて、柔軟に対応してもらいたいところである。


2004年10月追記。

8月下旬以降、廃止をしたがっている地方競馬の主催者が続々現れています。その中でも高崎競馬は年度の日程を打ち切って、12月廃止を正式発表。隣の宇都宮競馬も年度終了を以っての廃止が確実視されています。今年はオリンピックイヤーですが、次の2008年までの間に地方競馬が存在していない可能性がある位、危ない状況です。
だが、これだけ廃止が相次いでいるのに監督官庁の農水省のスタンスは、主催者が決めたことは尊重するしかないとのこと。つまり、自己責任ということだ。農水省は本当に競馬が発展することを考えているのだろうか?。とにかく減らしたら、発展なんて有り得ません。


2004年7月追記。

1.7月13日。新潟県を襲った大雨による洪水災害。三条市、見附市、中之島町を中心に甚大な被害が発生してしまいました。被災者の方には心より御見舞申し上げます。私も義援金の拠出と競馬などを通じてたくさんの知り合いがいる三条市においてボランティア活動に参加いたしました。三条競馬場の内馬場はゴミ置き場となっていますが、早くこのゴミがなくなることを祈るばかりです。

2.今、プロ野球界に激震が走っています。発端は赤字に苦しむ近鉄バファローズがオリックスとの合併を発表したことにありますが、近鉄とかつての新潟県競馬の撤退にいたる部分に類似点がある。例を挙げれば、圧倒的な人気組織(近鉄なら、阪神タイガース。県競馬なら、JRA。)が身近に存在し、どんなに努力してもファンが集まってくれない。常設会場が借り物で、年間にバク大な施設使用料を払っている点です。近鉄には合併でなく、どこかの企業に売却して、12球団制を維持してもらいたいところです。


2004年6月追記。

1.今年は、新潟県知事選挙の年なのですが、現職の平山知事が立候補しないことを表明しました。思い起こせば、前回の選挙の年だった2000年。この頃以前に赤字続きの県競馬廃止問題がくすぶっていたわけですが、2001年春の中津競馬廃止が呼び水になったのか、残念ながら、この年のシーズンで廃止が断行されてしまったわけです。平山知事の残り少ない在任期間中で、未だ妥結しない調教師会との補償交渉をきっちり解決して、次の方にバトンタッチしていただきたい。

2.笠松からJRAへ移籍した安藤勝己騎手が2年目で、日本ダービージョッキーとなった。これは本人の騎乗技術はもちろんのこと、調教師や馬主等の関係者との人間関係が良好でないと中々、好成績はあげられないことです。今年は、兵庫から小牧太騎手、赤木高太郎騎手が移籍をしましたが、週末に開催することがないかまれな主催者の騎手の中には名古屋の吉田稔騎手、兵庫の岩田康成騎手のようにJRA所属と変わらない位に毎週、土・日のどちらかには必ず騎乗している地方競馬所属騎手も登場しています。私の本音を言えば、元県競馬の騎手にこのような状態が起きてほしいと願うばかりです。


2003年11月追記。

1.11月11日を最後に上山競馬ではレースが行われないこととなった。(つまり、廃止。)新潟県競馬健在の時は、上山そして岩手と東北の名の下、様々なカテゴリーで交流重賞が行われ、全国的にも注目されたものだった。残念ながら、上山にはそんなに強い馬がおらず、新潟に遠征して優勝をかっさらうことは少なかったが、新潟−山形対抗戦でのスルガスペイン。新潟平成カップでのレオグリングリン。東北アラブダービーでのマルハチフレンドの優勝は印象に残るものだったし、ナラシノブルボンやセントアトラスのように新潟から移籍して大活躍を遂げた馬もいました。こうして、競馬関係者が路頭に迷う廃止がまたも断行されたわけですが、騎手、調教師、厩務員の移籍が円滑に行われることを切に願うばかりです。

2.生産者が音頭をとって難産苦難のうえに実施に漕ぎつけたJBCも3回を迎え、JRAの馬券発売所でも発売が箇所が相当増えた。だが、福島の開催を実施することが条件でも発売箇所の増加であった。JBCのスプリント9億で、クラシックが12億の売上げに対して、福島の条件馬特別戦の売上げが20億だった。地方競馬のダートのGTよりもJRAの条件戦の方が売上げが多いとは。いかにJRAの競馬にしか興味のないファンが多いことを如実に現しています。これでは地方競馬は立つ瀬なしです。


2003年8月追記。

夏と言うことで、おなじみのJRA新潟開催が行われているのでありますが、この時期になると、どうも憂鬱になってしまう。やはり、県競馬との人気の差をいやが上でも実感してしまうせいだろう。評論家の宇田川淳氏が県競馬廃止の検証記事のタイトルで「新潟に共存共栄の需要なし。」と記しているが、新潟に限らず日本全国どこでもそうなのだろうと感じるしだいです。
廃止後の最大の楽しみが元県競馬騎手の新潟競馬場における凱旋騎乗ですが、これが中々実現しない。向山騎手も京都・阪神・中京の騎乗は数え切れない位になったが、新潟での騎乗は、実現か思いきや馬の体調不良で複数にわたり幻に終わる始末。今現在では大枝騎手だけ、凱旋騎乗が実現しているが、新潟の地で彼らの元気な姿を見てみたいものです。
なお、向山騎手の凱旋は実現しました。


2003年1月追記。

あの雪が降り積もるなか、順延続きで強行開催した2002年1月4日も結局、最後までレースを消化できずに終わった県競馬最終レース日から、1年が経過いたしました。皮肉にも今年は、雪が積もらず、本当にあの日、赤間松次調教師がいみじくも言った「天も我々の味方をしませんでした。」というあのことばを思い出してしまいました。その後、競馬諸団体と補償交渉を行いましたが、未だ調教師会と馬主会との間では補償額が妥結していません。何ゆえ、開催が終わっても交渉が不調なのか。その原因はひとえに県が今後の運営を検討する委員会を立ち上げて審議するかたわら、その実は、知事を含めて一部の人間だけで、既に廃止を決めていて、その事前の相談は何一つ競馬関係者にはしていなかったことに起因しているのは間違いありません。
栃木や高知では、2、3年の時限で赤字がさらに増えているようであれば、廃止するという取り決めをしましたが、新潟もこのような方式が採用できたのではと思っています。これなら、ファンの立場としても納得できます。今後の地方競馬。前述の栃木、高知のように廃止予備軍の主催者がほとんどと言っても過言ではありません。ここいらで、本当に競馬を構造改革しないと日本の競馬の未来は余りにも暗いです。


2002年10月追記。

ご存知のとおり、2002年4月からは、旧県競馬の馬券発売施設は、南関東競馬の馬券発売所になったわけですが、なぜか新潟県向けの広報・宣伝というものに積極的ではない。三条とかにいて話をしていると、新潟日報への出走表の掲載が広告扱いになり、それこそバカにならない費用なるんだなんてことを聞かせてもらい、これは本当のことなのかと言う疑問にかられて新潟日報に質問しました。そうしたら、昔から地方競馬の出走表掲載は広告扱いでJRAのそれは記事として扱っているとの回答をもらいました。(つまり、JRAは無料。)これを見てもいかに新潟県競馬にはマスコミの支援がなかったかを改めて実感するしだいです。マスコミにとって、県競馬と言う存在は、そんなに魅力のないものなのだろうか?。そう思わせる何かが県競馬にもあったのかも知れんが、この回答をもらい愕然としてしまいました。ちなみに某スポーツ新聞社にも同様の問い合わせをしたら、出走表を載せる際には広告料は徴収していません。大井競馬の関連団体が広告料をしぶるのは仕方がないでしょうね。
参考資料として、県知事が最初に廃止にふれた1998年当時の私の県競馬への
提言もご覧ください。


2002年7月追記。

2002年6月。サッカーのワールドカップが日本と韓国を舞台に華々しく開催され、ホストの両国が共に決勝トーナメントに進出したこともあり、成功裏に大会が終了しました。新潟県でも3試合実施され、大変な盛り上がりを見せました。しかし、この大会のために造った競技場(ビッグスワン)の維持費は毎年出し続けた県競馬の赤字分と同じ位になるそうです。他にも信濃川最下流に柳都大橋や新潟みなとトンネル(海底トンネル)の建設。さらには佐渡汽船乗り場近くに超高層のコンベンションセンターを建設中で、これらの建設費に新潟県や新潟市は莫大な支出を負担していることは容易に想像ができます。県競馬は、これらの公共事業の犠牲になったのではと思えてなりません。これらの事業の一つでもしていなければ県競馬がまだ存続していたと断言します。


付録。馬券柄で綴る県競馬馬券購入の自分史。

保存してある最古の馬券。1988年4月。

今は見ることのない、三条のシングルユニット馬券。1991年8月。

1992年の馬券。三条と新潟では図柄が全く違います。

今までで、一番悔しい思いをした馬券。1994年第1回平安ステークス。

早朝前売で買うと、シングルユニット券でした。1996年。

初めて馬番式で発売された日の馬券。1997年10月10日。

岩手、上山、高崎以外の地方競馬の馬券を初めて発売した1998年2月4日。TCK女王盃。

三条競馬場の最終開催日の馬券。2001年8月16日。

最後のレースとなってしまった。2002年1月4日の第2レースの馬券。

三条競馬場でのJRA馬券発売最後の2002年3月24日。アンカツ−石崎勝負馬券。マーチS。

新潟県競馬組合、最後の馬券発売日の2002年3月27日。ダイオライト記念。