「ほかり」の源流について
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【確かめたい名字由来】
@ 太田亮博士著「姓氏家系大事典」穂刈について
武蔵の豪族丹党の一にして、秩父丹五基房の二男、新里丹
二太夫恒房の孫由良良三郎光綱の裔なりと。光俊を祖とす。
その他、信濃にこの地名あり。
A 日本家系協会 平成2年「穂苅・穂刈一族」
穂苅氏は由良良三郎光綱を祖とす。光綱(武蔵の国より)
上野国に移り、由良氏を称し、その裔光俊、信濃国水内郡穂
苅に住して氏となす。信州穂苅氏は、当地の名族とて、名あ
り。按ずるに、穂苅氏も、信州に来たりて牧監等をつとめし
ものならん。
B 明治38年(1905年)発行「新撰姓号類纂(るいさん)」
原典「得替記」
現代語にすれば、、、
宣化天皇の皇族多治比古王十七代の孫丹三冠経房弟、秩父丹五基房
二男新里丹三太夫恒房を経てその孫光綱に至り、武蔵の国由良に居
て子孫多く、その裔二郎太夫光俊はじめて居を別(分)ち、在名に
因りて(住んだ地の地名をとって)、是より穂刈と称す。
(武蔵の国由良との地名は武蔵にはないので、武蔵との国境にちか
い、上野国由良の事と考えられる。)
【参考】
むさし【武蔵】
東海道十五か国の一国。古くは无邪志(むざし)国・胸刺(むさし)
国・知々夫国の国造が置かれたが、大化改新後一国となり、初めは東
山道に属した。宝亀二年東海道の一国となる。鎌倉時代には関東分国、
北条氏が国司・守護職を兼帯、室町時代には初め鎌倉公方、後、関東
管領上杉氏、戦国時代には後北条氏が支配。天正一八年徳川家康の江
戸入府後、藩領・幕領・旗本領に分かれた。廃藩置県後、八県が置か
れたが、のち埼玉県・東京府・神奈川県に分割統合された。武州。
今の東京都の大部分と埼玉県と神奈川県の一部
むさししちとう【武蔵七党】
平安末期から南北朝期にかけて武蔵国を本拠として活躍した武士団
のうち、主な七つをいう。同族的性格をもち、いずれも武蔵国の国司
の子孫が土着したものといわれる。七党には異説があり、数え方も一
定しないが、野与・村山・横山・猪俣・児玉・丹・西・私市(きさい)
・綴(つづき)の諸党の中から挙げられる。大武士団の成長をみない
武蔵国ではこれらの小武士団が割拠し、それぞれ源氏の従者となって
いった。武蔵の七党。
その他の資料は省略しますが、穂苅氏の始祖については以下の内容と 考えられます。
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平安末期から南北朝期にかけて武蔵国を本拠として活躍した武士団
(武蔵七党)の一つ武蔵丹党の一族で、現在の秩父市(埼玉県西部)
に拠った秩父基房の子恒房が、同国西北部の現在埼玉県児玉郡神川
町新里に移り、新里と安保(あぼ)を領し新里氏を称えた。 新里恒房の子は光房、光房の子の光綱が上野国由良郷に移って 由良氏を称え、その裔(子孫)が光俊が、別に移り住んだ場所の名 をとって、是より穂刈と称した。 |
穂苅聡さんはさらに、この移り住んだ場所が、信州(長野県) 信濃国水内郡穂苅郷(現在信州新町)であろう根拠、その年代の 特定、さには、なぜこの地に来たのかについて探求しました。
まず光綱の生きた年代について
@ 裔とは子孫の意味で、丹党系図「系図綜覧」では、由良光綱の二人の子について、4代まで
明らかになっている。(光綱→実綱→時綱→実教→教綱、光綱→経氏→光氏→実氏)。
光俊はこの系図作成後の人物と考えられる。
A 当時の一代を約25年と考えると、その数世代後になるとすると光綱の時代から、150から175年後
が、光俊の時代と推測できる。
B 源平などの大族・名族ではなく、武蔵丹党の一族でしかない由良氏の家系なので、
そう何代も先の子々孫々までは、その名が知られていたとは考えられず。従って、@の
家系図の数代子孫と考えられる。
C 由良氏一族は、光綱の生きた承久の乱(鎌倉1221年)の頃から110年ほど後の南北朝時代、南朝方
新田氏に従って各地に転戦し敗残、由良の地には戻らなかったはず。「得替記」で、由良氏が初めて居を分けた
のが、この新田氏従軍の時代なら、光俊は光綱の4・5代後の人になる。
すなわち”ほかり”の子孫光俊は、建武中興(1334)の南北朝から室町時代に入
った応永年間(1394〜1427)中頃までの人ではなかったか。
次にこの時代の信濃国の情勢から移り住んだ理由を推察すると
@ 元弘3年(1333)、新田義貞の鎌倉進攻で北条氏の鎌倉幕府は倒れる。
A 時代は北条氏の後継を目指す足利氏と後醍醐天皇に忠節を尽くす新田義貞の対立。
B こうして、信濃は南朝方と北朝方が対峙。
C そのころ穂苅郷を領して、犀川沿いの現信州新町の牧野島城に拠っていた香坂氏は、南朝方でしばしば、北条氏と戦っていた。
D 元中9年(1393)南北朝合一、中央では南北対立は解消したが、信濃では「故敵当敵」。香坂氏はなお隠然たる勢力を維持。
E 由良郷と北朝足利氏本拠の上野国足利荘とは10キロ。南朝方の新田氏に属する由良氏が平和裡に由良郷から穂苅郷に移り住んだ
とは考えられない。
F 相次ぐ戦乱、北朝方の厳しい追及・探索を逃れるならば、山深く、南朝方の勢力圏である香坂氏の
穂苅郷に身を寄せたとする推測は的を得ている。その時代は上記の通り、1400年前後。
著書はさらに、光俊の子孫の行方や”ほかり”の意味や名字の分布、地名学上の意味や丹党の祖の追求、各地の各家 の訪問記録など多岐にわたる記述がされています。
