「ほかり」さんを探しています  
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トップページへ穂苅聡さんの紹介自己紹介

【皆さんの情報】です
私の家は○○から祖先がこの地にやってきた、、こんな言い伝えがある、、など。何でも構いません。

          
情報提供者
情 報 内 容
tetuaki Hokari初めまして。たまたま自分の 名字で検索をかけてみてこのページを拝見するに至り ました。
私の名前は穗刈です。まあ、旧字体を使っているだけなん ですが。私のうちのルーツというほどでもないですけど、 知っていることを送りたいと思います。
私の実家は、長野県須坂市にあります。米持という場所 なのですが、私の祖父の名字が穗刈なので、その住所は、 九反田という地名です。そのまちでも、2つの系統で伝 えられているということでした。
実際に自分の名字が珍しいと聞くことは多々ありましたが、 今回このようなホームページを見るにあたって皆同じよう なことを考えているのだと思いました。また何かあったら お伝え出来ればと思います。
Amane Takita東京の滝田と申します。 たまたま検索エンジンで見つけました。
由来を探るお役に立つとは思いませんが、一つ情報があります。 大塚製薬の「ポカリスエット」という清涼飲料水を作った人 (大塚製薬社員)は、ホカリさんだったという噂を聞いたこと があります。そういわれると、スエット」はともかく、 「ポカリ」の意味が不明ですよね。 つまらない情報ですいません。
穗苅 浩一朗 はじめまして。私、電気通信大学 通う学部4年生の穗苅浩一朗と申します。「ほかり」さんを探して いますを拝見した一人です。
私も名前検索で保苅浩さんのこのページに来た一人です。読み進む うちにとても他人事とは思えない内容に大変驚きました。私の一家 は祖父の代に東京に移ってきました。それまでは新潟県の西頸城郡 名立町で農業を営んでいたそうです。その少し前の代までは本当か 嘘か知りませんが大地主だったとか。しかし当時の当主の賭け事三 昧の日々の末小作農に没落したそうです。そのせいもあり長男では なかった祖父は東京に職を求めてやってきたそうです。このままの 展開では我が一家と名立町との接点はもはやなくなるように思える でしょうが、実は私の祖母と母親も名立町の出身。偶然とは(偶然 ではないのかもしれませんが)恐いものですね。現在では名立町の 穗苅家本家は残念ながらもうないそうです。その辺のところは私が 興味がないせいと、いろいろごたごたがあったらしい関係で親から は詳しく聞いていません。お役に立てず申し訳ありません。何でも 穗苅氏のルーツは信州新町にあったとか。早速にでも訪れてみたく なりました。今後も穗苅一族の続報を期待しています。穂苅聡さん にも宜しくお伝えください。では、この辺で失礼いたします。
帆苅雅宏
maruho@momo.so-net.or.jp
MAF01004@niftyserve.or.jp
こんにちは、保苅さん。わたくし、帆苅と申します。
Webのページを拝見しまして、これはメールを出さなくてはと 思い、キーを叩いております。
「ほかり」の由来について、大変興味深く読ませていただきました。 とりあえず、私の知っている限りの情報をお知らせいたします。
まず、私の帆苅という姓ですが、もともと私の父方の実家 (福島県耶麻郡塩川町)では草冠のない帆刈でした。 それを父が東京に出てきたときに勝手に帆苅と変えてしまい、 現在に至ります。
その福島の実家は、父の父、つまり私にとっての祖父の代に 新潟県の新津のあたりから移ってきたそうで、新津市内には 帆苅という姓がけっこうあります。
私も、何年か前の夏の高校野球で、新津市の高校のチーム に帆苅という選手がいたのを覚えています。
また、父親に電話で確認したところ、さらにルーツとなるの は保苅さんが今お住まいの西蒲原郡のあたりだそうで、もし かしたら、もともとは保苅だったのを誰かが 帆刈にしてしまい、さらに私の父親が帆苅にしちゃったのか もしれませんね。 つまり、保苅さんと私は遠い親戚という可能性もあるわけ です。
ちなみに、やはり以前に東京23区内の電話帳検索で帆苅さん を探したところ、数は覚えていませんがけっこう出てきまし た。穂苅姓で有名なところでは、数学者の穂苅先生がいまし たね。 あと、帆苅の読みですが、私は「ほかり」と読みますが、 福島の実家では「ほがり」となります。 これは訛りの関係かも知れませんが、一応、参考までに。 てなところです。 お互い、電話で姓名を名乗るときには苦労していると 思いますが、まあ今後ともよろしくお願いします。
穂刈 進 hokari@seagreen.ocn.ne.jp 初めまして。北海道の穂刈(旧字:穗刈)です。自分の名前を 検索にかけたところ、“「ほかり」の源流について”というのに 興味をひかれました。なるほど、「ほかり家」というのは、以外に たくさんあるんですね。皆さんの情報を拝見しますと、昔、 祖父に聞いた話にそっくりなところが多数あり、たいへん 驚いています。祖父も、ハッキリしたことはよくわからない らしいですが、「昔は武蔵という名字だった」「大地主だった」 「新潟あたりから北海道へやってきた」というところが、 皆さんの情報にあてはまります。これを祖父から聞いたときは 「本当なの?」と、わりと疑いがありましたが、これはもしかしたら 本当なのかもしれません!僕の家には穂刈家の家系図が ありますが、あまり古い時代までは記載されてなく、我が家の ルーツまではよくわかりません。ですが、その家系図に 掲載されている家紋は、我が穂刈家源流の手がかりに なるかもしれません。「蔭輪に七宝花菱」という家紋らしいです。 僕は家紋についてはよくわかりませんが、何かのお役に 立つことができるでしょうか?僕の知っている「ほかり」は、僕の親戚だけです。 親戚は、僕のうちを含めると「厚岸町」「喜茂別町」 「倶知安町」などに住んでいます。特に「厚岸町」の 親戚は、北海道での「本家」と呼ばれています。 本当の本家はどこにあるか僕は知りません。 僕の家の方は、分家ですからね。
保苅則雄 私は保苅則雄といいます。現在は神奈川県に在住しておりますが、祖父(保苅仙治)は新潟黒埼出身で今も、お寺にお墓があります。父と兄はここ毎年夏に墓参りに行っておりますが、気楽な次男坊はたまに手伝う程度で欠礼を重ねております。 さて、穂刈さんの調べられたルーツを拝見して、父の話していた内容と同一内容なので驚いてしまいました。是非出版社等お教えいただけると幸いです。父に知らせて上げたら喜ぶと思いますので。二十代の頃、スキーに行くために、夜中信州を車で走行中、橋に差し掛かったところ、「ほかり橋」とあった時は驚いてしまいました。場所は信州新町、実家で父に話したところ、定年を迎えた父が真剣にルーツ探しを始めた結果が上記の話しでした。全国にいらっしゃる「ほかり」さん、何かの縁でしょうか?よろしくお願いします。 では、ご挨拶まで。
生田淳一郎
jikuta@ma4.justnet.ne.jp
ホ=美称 カリ=朝鮮語から入ってきた「刀・刃物・鉄」…+i(人) ネパール語を中心に古代語を追い掛けまわしています。 日本人の苗字の意味の約半分が分かるようになりました。 小生のホームページ;「株式会社ユーアイ」末尾にも少しこれらのことを匂わせ ています。 どうしていままでこんな意味が分からなかっのでしょう? それは昭和29年頃に日本の黒幕気取りのオッサンたちが「音韻対応」というこ とで仕組んだ国家規模の陰謀だと思います。 敬白
森 恭子  (Kyoko.M)
april@pop16.odn.ne.jp
はじめまして。私は森姓ですが、実は母の旧姓が帆刈でした。 母は新津の生まれで、祖父が医師をしておりまして、その昔 帆刈医院なる病院を経営しておりました。 今はその医院は無いのですが、 おじが和歌山で病院をやっております。 親戚が祖先を調べたところ (どういうルートかは知らないけれど、どうやらその道の学者のようでして…) 祖先は海賊だったらしーです。 むーん。 でも、やっぱり新潟県に多い姓らしいです。 では。
 上原 三千代 MIU@vestas.dk はじめまして。
私の祖父の苗字は帆刈でした。 出身は新潟県柏崎市です。 祖父の生家等は今はありません。原子力発電所になって しまったそうです。 先祖は武士だったといっていました。桑名藩の飛び地が柏崎にあり、そこの馬回り役 だったとの事でした。 その由緒正しき(?)家系のせいか伯父は2次大戦中、近衛兵として伊勢神宮の警備 にあたりました。 祖父は92歳の天寿をまっとうし、7年前になくなりました。
 穂苅 英昭 hokari777@hotmail.com びっくりしました。 穂苅について調べてるサイトがあるなんて。 私の父方が新潟県長岡市の出身で周りには穂苅がたくさんいます。 発祥の由来とか調べてる人が新潟大学の教授にいるらしく 何年か前に調査に協力したら結果が送られてきました。 抜粋して覚えている限りを話すと 文献として残ってるものとして 戦国時代の上杉謙信から穂苅に宛てた文書が残っているらしいです。 そのあて先は長野県の穂苅郷というところに住む人宛てだったと思います。 もともとは穂苅郷に住んでいた人が新潟に移り住んだとのことでした。 もう一度資料を探して詳細に伝えます。お待ちください。
穂刈 富昭  こんにちは,始めまして。 愛知県豊明市に現在は住んでいます。  穂刈 富昭と申します父は新潟県長岡市青島町の出身です、あまりルーツについて 考えた事は有りませんが慈教寺の住職によりますと元々は高島と言う所の出だそうで す、信州の穂刈は草冠が着いた刈で私の刈には付いていません住職によりますと別の 系列だそうです、これをご縁に色々教えて下さい。
帆苅んの由来   帆苅の先祖は、もともと小田原の北条家の末えいと聞いております、北条家が戦により落城し幼名北条たくみとゆう人物が 越後に落ち延び、上杉家にかくまわれ、後に上杉家の家臣となり、秀吉の命により朝鮮出兵の祭航海上で嵐に遭遇し帆船の帆柱を断ち切って 難を逃れた、その功績をたたえられ、秀吉より帆苅と命名され一振りの刀を授かった、後にその帆苅なる人物の子孫が、阿賀野川流域を開拓し農耕集落 を形成していく、その集落が現在の旧新津市の七日町という地域です、その七日町という部落は200戸ほどであるが、四分の一程度が帆苅性です、 その七日町に錦正寺とゆう、お寺があり、そこの本堂に、帆苅と刻まれた刀が奉納されています。
帆苅の祖先は小田原の北条氏邦
湯本  
はじめまして。 現在歴史系の大学で勉強させて頂いているものです。さて、ほかり姓の由来ですが、私の母方が帆苅だったこともあり、二年前ぐらいにいろいろ調べた時期がありました。私の ほかり の由来については 自分で調べてみて分かったことをお知らせさせて頂きます。何かの参考になればよろしいのですが。 私が興味を持ったのは帆苅姓ですが、こちらの本家は旧新津市にあります。そしてその家の血縁に当たる人が新潟県の建設会社の帆苅建設設立者です。彼は自分の名字の由来に興味があり、調査し、石川県金沢市の大乗寺にそのヒントがあることが分かりました。 私が調べた内容と貴殿のHP内「みなさんの情報」にある「帆苅んの由来」にある情報は大体一致しておりますが、少し違う所があるのでお知らせ致します。 帆苅の祖先は小田原の北条氏邦です。氏邦は北条氏康の四男で北条氏政の弟です。氏政が家督を継いだあと、武蔵国藤田康邦の娘婿となり、藤田家の家督を継ぎ、以後、藤田安房守(藤田氏邦)を名乗ります。兄・氏照同様に武勇に優れ、上野方面の軍事を任されました。そのため、越相同盟のときは後北条側の中心人物になっています。 1590年の豊臣秀吉の小田原攻めの際には小田原城に籠もることに反対して大規模な野戦を主張しましたが、意見が取り入れられず、居城・鉢形城に籠もって抗戦しましたが、前田利家の軍に攻められて降伏します。戦後は利家の申し入れもあり、剃髪することで一命を許され、知行1000石を得ました。その後、加賀金沢にて57歳で病没しました。 さて、帆苅の直接の祖先ですが、氏邦の次男、北条匠守です。彼は越後の上杉景勝の家来として登場しますが、現段階の調査ではなぜ彼の子孫が越後に残ったのかは分かりません。(上杉氏と後北条氏は上杉謙信の代に武田信玄との対抗上、越相同盟を結ぶことにんでおり、この同盟によって関東における北条・上杉氏の勢力範囲が定められ、北条氏は上杉氏に武蔵松山城など武蔵国北部一部を割譲して上野における上杉氏支配を認めること、上杉氏が長年その正統性を認めてこなかった足利義氏の古河公方就任を認めること、氏康の子・氏秀が謙信の養子となることなどが決められました。越相同盟は2年後に氏康が病死すると、その遺志を受けた嫡男北条匠守よって越相同盟は破棄されますが、謙信と養子・景虎(氏秀)の養子縁組は解消されませんでした。謙信急死後、その家督をめぐって謙信の養子である上杉景勝(実父は長尾政景)と上杉景虎(実父は北条氏康)との間で内乱が発生します(御館の乱)、これにより、上杉景勝が勝利し、家督を継ぎました。もしかしたらこの一連のことが後北条氏と越後を結ぶ接点かも知れません)。 後に秀吉の命により上杉景勝は朝鮮出兵に参加することになり、その際、家来として一緒に船に乗りました。しかし、嵐で船が沈みそうになると、雄叫びを上げながら、船の帆を切り落とし、その機転で船は助かり、その手柄を顕彰した景勝によって苗字と刀が下賜されたそうです。〈以上、ここまでは金繍寺所蔵の「帆苅氏由来書き」(筆者 仮称)から要旨をまとめたものです〉元来、それらは金沢の大乗寺に奉納してありましたが、例の帆苅組設立者が多額の浄財と引き替えにこれをえて、現在は同家の氏寺である旧新津市七日町の金繍寺というお寺の本堂のガラス張りのケースのなかに収められております。なお、数年前までこのお寺は常に本堂に参拝できるように成っていたようですが、現在では鍵がかかっており、見学の際には事前連絡が必要です。  こういうとなんですが、これらはあくまで伝承であり、私自身まだ大乗寺にいったわけではありませんので、どこまでが真実なのかわかりません。また養子だったという可能性もあります。ただ、事実としたら、一般に知られている北条氏邦の家系とは別の流れが越後に存在していたことになり、日本の戦国史研究上おもしろいことになりそうです。そうなると、「みなさんの情報」内穂刈 進さんの情報の一部、「昔は武蔵という名字だった」ということとも繋がってくるかもしれません。 また、他にもホカリという音は「ホ」+「カリ」からなっており、農民が稲穂を刈る様子をあらわしているとも考えられます。そうすると、出自が農業を営んでいた集団であったことも考えられ、「地主」だったとしても問題ないことになります。 ホカリ自体、このようにさまざまな系統が存在しており、一概に一つの家系だけで名前を解釈しないほうが良いかもしれません。
帆苅 由紀子と申します。 結婚して苗字は緒方に変わりましたが、結婚する前に両親に挨拶に行った時に苗字の由来を聞きました。元々は新潟県に住んでいたらしく戦争で逃げ回り終戦後辿り着いたのが北海道池田郡というところだったそうです。開拓しその後は兵庫県に移ったそうです。 何かのお役に立てればと思い連絡いたしました。
穂苅さんの著書の一部紹介をしています....【確かめたい名字由来】

新潟市西区黒鳥4972
保苅 浩(ほかり ひろし)
情報をお待ちしています


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